2018-02-27 第196回国会 参議院 議院運営委員会 第7号
○参考人(立花宏君) 先ほど足立先生の方からも御指摘、冒頭の中でございましたけれども、私自身は経団連で土光会長に、会長時代、本当に事務方の端っこでいろいろどなられ叱られ鍛えられたわけですけれども、土光さんが非常に強調していましたのは、現場力といいましょうか、現場の力といいましょうか、やはり大手町というかああいう、デスクで新聞を見て、人の話を聞いて、見聞きすると、これはこれでもちろん大事ですけれども、
○参考人(立花宏君) 先ほど足立先生の方からも御指摘、冒頭の中でございましたけれども、私自身は経団連で土光会長に、会長時代、本当に事務方の端っこでいろいろどなられ叱られ鍛えられたわけですけれども、土光さんが非常に強調していましたのは、現場力といいましょうか、現場の力といいましょうか、やはり大手町というかああいう、デスクで新聞を見て、人の話を聞いて、見聞きすると、これはこれでもちろん大事ですけれども、
まず経団連の土光会長、日経連の桜田武会長、日本商工会議所会頭の永野重雄さん、経済同友会代表幹事の佐々木直さん、そういう財界の首脳が、それこそこぞって、当時の三木首相、それから自民党の幹事長は中曽根さんでしたけれども、そこへ直接、赤字国債の発行に踏み切るべきだ、そういう圧力をかけたということがあります。これを受けて、中曽根幹事長は愛される国債にしたいと言ったということが新聞で報じられております。
のところ当初は自信がなかったんですが、市川先生の選挙をやってみて、そのときは、一九七一年に一度落選されて三年、もう引退しようかとされていたわけですが、それを当時の、私もまだ二十代でしたが、そういう若者が支えて当選させて、その直後に市川先生は経団連に対して、当時自民党に経団連から直接多額の献金が行われていた、まさに大企業献金が当たり前のごとく行われていたことに対して、それをやめなさいといって、当時の土光会長
私も、先ほど三十年、四十年と申し上げたのは、今御指摘にあった、市川房枝先生の選挙の直後に、市川さんが最初に経団連に乗り込んだテーマが企業献金の禁止でありまして、一たんは、当時の土光会長が経団連が扱う企業献金、自民党への献金はやめるということを約束し、そこからまたいろいろな展開が始まったことを私もよく覚えております。
そして当選直後、市川先生は青島幸男さんとともに経団連の土光会長を訪ね、経団連による企業献金のあっせんを中止する約束を取り付けたのです。この約束はその後骨抜きになってしまいましたが、まさに本年、経団連は企業献金への組織的関与の廃止を決めました。一票の力が政治を変える、当時の強烈な体験が私の政治の原点であります。政治は国民の力で変えられる、この信念を胸に、与えられた責任を全うしていきます。
そして、当選直後、市川先生は、青島幸男さんとともに経団連の土光会長を訪ね、経団連による企業献金のあっせんを中止する約束を取りつけられたのです。この約束はその後骨抜きになってしまいましたが、まさに本年、経団連が企業献金への組織的関与の廃止を決めました。 一票の力が政治を変える、当時の強烈な体験が私の政治の原点となりました。
ここで言う正しい競争という言葉でございますが、これは、協調しながら競争して、土光会長がかつておっしゃられたように、社会の公器として国民のために切磋琢磨するということが競争ということの本質でございます。ですから、経済学が教える競争というのは、弱肉強食というような短絡的な考え方とは全く違っております。
当時、佐々木委員長と一緒に土光会長を激励に行ったり、懐かしく思い起こすわけでございます。
かつて国民に親しまれ敬愛された第二臨調土光会長は、今ここで行革ができなければ二十一世紀に生きる人々が苦しむだけですと言って国家国民のために尽力された熱い思いを忘れずに、鉄は熱いうちに打てと言われるように、総理が先頭に立って改革ののろしを打ち上げ、次々と具体化を進めていく姿は、国民に希望と期待を抱かせるものであると私は確信するものであります。
特に臨調ということになりますと、私たち多くの国民に土光臨調という意味では、土光会長が今ここで改革ができなければ二十一世紀に生きる人々が苦しむだけだと言われて、当時、赤字が累増している国鉄を含む三公社の民営化の実現の基礎づくりをして大きな成果を上げたということは国民の周知しているところであります。 当時、橋本総理は自民党の行財政調査会長として行革に並々ならぬ熱意を示されておった。
行財政改革の基礎を築いた土光会長が六十一年の第一次行革審の最終報告で、今ここで行財政改革をあきらめるならば、これまでの努力は水泡に帰し、行財政は再び肥大化の道をたどり、ようやくほの見えてきた明るい希望も消え去るでありましょう、私はこのことが心配でならないのですと言明しております。
○望月委員 第二臨調のときですら国じゅうが大騒ぎをして、土光会長の号令のもとに真剣に行革が始まったわけでございます。それなのに、平成六年には三倍の二百六兆円になってしまったのです。 総理は火だるまになってやると言明しておりますけれども、これはもう並大抵のことではございません。
一たん計画したものは万難を排して成功させよう、これは土光会長のお言葉でございます。総理の決意をお伺いして、私の質問を終わりたいと思います。
ところで、この改正案のルーツというのは八一年の土光会長の臨時行政調査会の答申です。そこではこのようにはっきりと言っています。年金の部分を読み上げてみますと、「各種公的年金制度については、その長期的安定を確保するため、制度間の均衡を図りつつ、老齢年金の支給開始年齢の段階的引上げ等給付の内容と水準を基本的に見直し、保険料を段階的に引き上げる等、年金制度の抜本的な改正を検討し、早急な実施を図る。」
御承知のように、規制緩和の問題というのは大変長い歴史を持っておりまして、振り返ってみますと、昭和五十六年の三月ということですから、今からもう十四年近く前に土光会長率いる第二次臨調が発足して以来堂々めぐりを続けているような感じを持っております。
昭和五十六年の一月だったと記憶しておりますけれども、当時の経団連の土光会長が何の前ぶれもなく鈴木知事を突然訪ねられました。いわく、自分は鈴木善幸総理から臨調の会長就任を要請された、その具体的な承諾をする前に鈴木知事に本日は教えを請いに参りました、こんな話でありました。それは、あの未曾有の都財政の再建をスムーズに行っておられる鈴木知事の考え方についてお伺いしたい、こんな話でありました。
それから、今度は我々地方から言う分でございますが、まず地方から言う分はどういうことになるかというと、最近いろいろなものが書かれておりますが、一番大事なものは何かというと、今まで私たちがもう昭和の初めごろから地方に権限を渡してください、事務事業の再配分を地方にやってください、あるいは臨調の土光会長はイワシを食べながら貧しい生活をして、おれは行政改革に生命をかけてやると言ったんですけれども、あの土光さんの
○小川仁一君 とにかく、土光会長以来ずっと行革審を見ておりましたが、ちょっとニュアンスといいますか、物の言い方の内容その他違うようでございますから、この点は受けとめる方でもしっかり受けとめていただきたいと思います。 さて、きょう議題となっております整理合理化法案についてですが、これは十省庁三十四の法律でございます。
だから国民に、行革の路線じゃないけれども、自主自立ですか、何でも国民に一生懸命やれと一番最初に土光会長がめざしを食べて、財界のトップでさえめざしを食べて我慢しているんだから国民も少しは我慢しようじゃないかと自立自助の方針出してきた。こういう思想がこういうものにもつながっている。私は行政改革というものはこんなところにまであらわれているのかなとびっくりした。
行革は国民の理解と支持がなければ実現できないと強く主張された故土光会長のお言葉が大変に印象的であります。土光会長の葬儀の際に数万人に及ぶ一般市民が参列したことがこれを雄弁に物語っているというふうに考えております。 それで、まず土光臨調以来九年間の行政改革の成果はどうなっているのか、ちょっとお伺いしたいと思います。
まず第一番目には、何といっても土光会長というだれからも支持される人物をヘッドに置いたということ、これがやはり最大の理由ではないのかなと私自身は考えているわけであります。
それに歯どめをかけようということで第二臨調が設置され、あの土光会長のもとにかなり厳しい行政改革が推進されたわけであり、国民もそれに対して拍手喝采をしながらその行方とその成果を見守ったわけでございます。
○政府委員(白井太君) 私ども、簡易保険事業では、簡易保険事業団を通じまして、保養センターでありますとかレクリエーションセンター、あるいは加入者ホームなどの、私どもは加入者福祉施設と呼んでおりまして、そういう施設の設置や運営を行っておるわけでありますけれども、特にこの保養センター、レクセンターなどの問題につきましては、先生も十分御存じのことでございますけれども、土光会長の臨時行政調査会が五十八年の最終答申
土光会長、きょうお亡くなりになったわけですが、あの人が私どもに行革のときにおっしゃったのは、まず糧道を断って初めて物事が進むのだ、それがありましたから、あの当時の矢野書記長にたびたび提出しろと言われて出しました仮定計算、あの当時のものをずっと計算しますと、十二兆一千億ぐらいやはり削減合理化をしたごとになるのです。